門司港と言えば、今では「レトロ」で全国的にも知られる九州の観光地だが、私が高校時代をここで過ごした頃は今とは全く雰囲気の異なる街だった。
街には一部が崩れた建物が散見し、街全体を海の臭いやドブの臭いが覆っている。かつてここが九州の玄関であり、世界的な貿易港として栄えた面影はうかがい知ることはできなかった。
それでも港には、側面に見知らぬ文字が書かれた異国の貨物船が停泊し、上陸した浅黒い顔のアジアの船員たちが目をギラつかせて裏通りを往来する姿を目にする時は、この街が他の日本の街とは異なる歴史を歩んできたことは、当時の私にも容易に理解できた。そういえば、彼らはいつも生活用品を買い込んだ大きな袋や、むき出しの中古の家電製品を抱えていた。
他にも、路面電車ではチマチョゴリを着た下関の朝鮮学校へ通う女子学生と向かい合わせで座ることもあったし、めかり公園に建つパゴダ(仏塔、寺院)からは黄色の僧衣を着たビルマ僧(我々は「ウーケンミンダーさん」と呼んでいた)が時々街まで降りてきて、桟橋通りを徘徊する姿を見かけることも多々あった。
そうしたアジア臭の色濃い門司港に高校の3年間通っていたせいで、私にとってアジアは日常であり、さらに漢文が好きだったこともあって、大学はごくごく自然に中国語学中国文学科を選んだのである。
大学に入ってからはクラブとバイトに明け暮れる毎日で、海外や留学などとは全く無縁の生活を送っていたが、大学院に進学し、研究室に足繁く通うようになってから、再びアジアは身近な存在になった。研究室には中国人の長期留学生がいたし、中国に旅行したことのある先輩や仲間の話を間近で聞くようになったからである。
ちょうどその頃、大学の生協で藤原新也『印度放浪』(朝日文庫)を偶然手にした。黒い犬がガンジス川の中洲に流れ着いた人の死体の足をかじる写真を見て一瞬たじろいだが、それでもそうした世界に引き込まれるような感覚を抱いたのは、学生時代に門司港で生活したことが影響していると思う。この時、藤原新也が門司港出身で、彼の生家(旅館)が私が毎日電車を乗り降りしていた桟橋通りの電停から目と鼻の先にあったことを知った。藤原新也がインドやチベットを放浪して回ったのも、門司港という街で生まれ育ったことが影響している。アジアと私の距離は、藤原を通じて、それこそ目と鼻の先ぐらいに一気に縮まった。
それからしばらくして、私は25歳の時に中国南京に留学することになるが、そのもとをたどれば、以上書いてきたように門司港という街でアジアを身近に感じながら学生生活を送ったことが大きいように思う。
次は弓削商船野口先生にお願いします。
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